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2016年03月01日

20160301「思い込みを捨てる人生」

今日からまた日記を再開する。過去にmixiで書いてたペースくらいで考え事などを書きたい。
目標としては、他人を意識しない本当の日記を書くということ。


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私は長いこと、「こうでなくてはならない」という思い込みを廃する人生を送ってきた。
何かを聞かれても「どっちでも良い」「どっちもアリ」「こうでなくてはならないということはない」
というような回答が多いし、そもそも何かを決めたいともあまり思わなくなった。
何事も白黒ハッキリしていないと不安という人もいるだろう。
善悪・良し悪し・敵味方・利益不利益・大人子供・古い新しいなど、
根拠はともかく決めてしまうことで心が楽になる人もいるだろうし、
もっと進んで、やたらと何かを斬ること(あるいはそれを有名人等に代行してもらうこと)に
快感を覚える人もいるだろう。それがわからないわけではない。
ただ、私はそういうものと接すると却って心が疲れてしまう。
できればなるべくいろいろな人・考えがOKだとされてほしい。
自由を侵されない場所にいて、自由でいることこそが私の心の安定に役立っている。

従って、そういう私が自発的に書くものも、特に何も斬らないことが多い。
ただ「こういう様子だった」「このように考えた」というだけのことである。
それが私にはいちばん大切なのだ。そして、私が接したい情報もそういうものだ。

自由な選択の上で偏ることはあるが、それは偏りたいのではなく、
自由に考えてそれを選んだに過ぎないし、また変わることもある。
私は情報を更新し思考を常に再構築する。どこかに留まりたいわけではない。
あるものだけから多大な影響は受けない。特定のものを100%信用することもない。
別にそう決めているわけではないが自然とそうなる。

そうでもないだろう、と思われる人もいるかもしれないが。

思い込みや決め付けは、多大なパワーを生み出すことがある。それは否定しない。
しかし、それが自分の皮を超えて、他者を攻撃したり抑圧したりすることもまたある。
少なくともそのような思い込みは私はあまり持ちたくない。
また、環境や情報が変化しても自分を変化させられないという状況ももたらす。
それは私にはつまらないことだ。たとえパワーがなくなるとしても。

つまり私の基本姿勢は「疑う」「考える」ことにあるのだと思う。
それ以外のことを私に強いても、たぶん功を奏することはない。

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ということ以外にもいくつかのことを考えた一日だが、
別に今日だから特別ということは特になく、常にこんなことを考えている。
全部を書くのはやはり大変だ。喋りたい。

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おにぎりせんべいを食べた。

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ブログやSNSで分かち書きすべきなのかどうなのか、いまだに迷う。
あまりよくないかもしれないが、たぶん併用する。
posted by しかすけ at 19:10| 日々の記録'16 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月10日

20151110

政治家の香典の話が出ているが、私は冠婚葬祭などで直接お金を渡す・渡されるのが昔から苦手でしょうがない。なぜ現金なのか。お年玉とかもそうなのだが、いただくとしてもどうも気が引けるのである。

相手を想って贈り物を選ぶとか作るとかは(私は楽しいが)手間がかかるし、相手の生活上の必要性だけを考えるなら効率が悪いというのは、まぁわかる。では「ほしいものを聞く→買う」という段階を踏めば良さそうだが、やはりこれも手間はかかる。もちろん現金は(少なくとも貨幣の信用の高い日本では)何にでも使えるので非常に効率的ではあるが、どうも私は気分的にはよろしくない(あくまで私は、だが)。私なら一万円よりも心温まる手書きの手紙でももらえたほうが嬉しい。

まあ、渡したい人が渡せばいい、人それぞれでいい、というのなら別に良いのだが、だいたいこの手の風習は「横並びでなくてはならない」という注釈がつくのが嫌なところである。「常識である」というお墨付きのもと、お前だけ現金じゃないのは許されないぞ、という圧力がある。正直そんなのを振りかざすのはクソだと思うし私は絶対他人にそんなことを言ったりしないしみんながみんなそうではないと信じたいが、どこにでもこれを振りかざす人というのがいるのも確かだろう。

何かの際に何かを贈ることそれ自体は別に好きだし、良いと思う。ただ、現金じゃなくたっていいじゃないかと思う。気持ちはそれを判断されるための形式としてではなく、当人の中にあるものを当人のかたちで表し、それを個々に汲んで受け取る・受け取られるだけで良い。その手間がかけられない人だけが形式で判断されることを選べは良いはずだ。

もちろん、そういったお金は助け合いの意味もあるとか、間に入る業界が潤うとか、まあこれもよく言われるだろう。でも本来は冠婚葬祭もお金で解決するものではなくて、実際の手間・労力の面で助けたり、あるいはそもそも出せないほどお金のかかるようなやり方で立派にしなくったって成立するはずじゃないの? と思う。そういうやり方をする人がいて、これも「横並びではないから」「常識とされる形式と違うから」悪く言われたりするようだと、いよいよ病んでるんじゃないか・・・と思ってしまう。

誤解のないように言うが、金は汚いとかそういう意味ではない。ただ、みんなお金出しましょう、は違うだろと思うし、いくら出すのがマナー、などという気持ちも何もない誰が決めたんだという(本来の「マナー」などとはかけ離れた)文化など、維持してもしゃーないだろさっさとなくなれよ、とすら思うのだ。体裁でしか気持ちが判断できない・体裁が先にないとダメだなんて、それこそあまりに寂しいでしょ。もちろん「常識」にのっかるのは楽だという面もあるというのもわかってるよ。反論なんていくらでも思いつく。全部書こうか(笑)? だけど、どれも私の思考を覆すほどの正当性は感じない。

もし自分が結婚するなら、結婚式なんてしないで、全部こちらが負担して用意する手作りのパーティーならしたいと思う。最初からご祝儀をあてにした結婚式の計算とか、正直まったくやりたいとも思わない。まあ葬式は最初からやってもらわなくていいが。

そんなことを言っているから結婚もできないし周りに人もほとんどいない、というのは理解しているつもりだけどね。でも思うことは正直に書くよ、自分は。それでも良いという人だけ、付き合いが残れば問題ないからね。

posted by しかすけ at 22:27| 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月24日

20150724

我々の社会は、「一部を見て全体を決めつける」ことに非常に甘い社会だなあと思う。個人に対しても、集団に対しても。

心の中に白黒のつかないものがあると不安であるという人が一定数いるのは、理解できる。だから一部を見ただけで、全体の善悪を判断したがる。しかしそれは、判断したい側の都合にすぎないはずなのだ。判断される側はたまったものではない。しかし我々の社会は、ほぼ全て判断される側に責任があるなどとしているのではないか。

多数が所属する集団の中に、実際に不法な行動をする者がいたり、好みに合わない習慣を持つ人がいたりするのは、いわば当たり前のことである。だから、たまたま目についたそれだけから「その集団全体が悪い」「全体が気持ち悪い」などと論うことは、本来慎むべきことであるはずだ。また、個人にしても、ある属性を持つというだけで「こういう奴はきっと害である」「この属性を持つ人の一部が悪かったからこいつも仲間としか見えない」などと言われるのは理不尽なことである。しかしどんな根拠であれ判断する側が正しく、判断される側に発言権はないというのが我々の社会なので、これがおかしいこととされていない。私はこれが、とてつもなく嫌なのだ。

判断の必要性があり、互いがそれを承認しているのならば別に良い(試験や裁判など)。そうでもないのに、理不尽な判断が公開で行われ、またその行いを咎める人がほとんどいない、むしろ咎める人もまた悪だとか子供だと言われてしまうという、これほど納得のいかないことがあるだろうか。いくらなんでも、甘すぎるだろう。

これはたまに「他人に対して厳しい」とか「世間様は偉い」という言葉で表現される。しかしその実態は、白黒つけないと不安でしかたがないから他人を巻き添えにしてしまえという心の甘さに他ならない。他人や集団を裁くことで、自分の心を気持ちよくしているにすぎない。そんな行為、そこまで認められるべきことなんだろうかねえ。心の中だけでやるなら自由だけど。まあ、心の甘さを認める人同士が集まると居心地が良いのだろう。この世では、自分に厳しくしたって、誰も褒めてはくれないし、好かれもしないし、孤独になるだけなのかもしれない。
posted by しかすけ at 18:52| 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月06日

20150506「プログラム」

こないだひさしぶりにゲームの妄想を書いた。
http://sansakuka.seesaa.net/article/418419455.html


ゲームの企画を考えるのは昔から好きだ。
小学生の頃からやってるので地図趣味と同じくらいには深い。
しかし作るとなると容易ではない。架空地図なんかより時間がかかってしまう。
自分は架空地図は架空世界ではなく一枚の絵としての地図として描いてるので、
あんまり時間はかからない。しかしゲームは試行錯誤しないと話にならない。


しかしそれでも、上記記事のようにゲームがうまく回るための仕組みを考えたり、
どういう要素と計算が必要であるかまでは頭の体操としてよくやる。
プログラム組んでバグ取ってバランス調整して、が時間かかりすぎてできない。
特に表示系がダメで、イラッとしてしまう。
もっとパパッとできりゃいいんだけど所詮はアイデア屋にすぎない。
作って公開したブログラムは以下のようなものしかない。
New新タイトル製造機 http://sansakuka.seesaa.net/article/224265916.html
AutoChara (オートキャラ) http://sansakuka.seesaa.net/article/193304533.html


HSPならそんなにお勉強がいらなくて、組むのは楽しいのだけど。
お金もかからないしね。ただゲームは絵を用意するのが大変だ。
絵を描くのは好きだけど下手でね・・・。


ところで、将棋電王戦とかって、将棋の楽しさうんぬんは言うけど、
プログラムの楽しさについてはほとんどやってくれない。
それがどうも偏ってるというか、ちょっとどうなのと思ってしまう。
ああいう企画こそプログラム理解への入口に良さそうなものなのになあ。
権力や発言力の差なのかもしれないけどね。


将棋プログラムをHSPで作るのは・・・すごく大変そう。


あ、特にとりとめのない話なのでこれでおしまい。
posted by しかすけ at 20:00| 日々の記録'15 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月05日

20150505「わかりやすさ」

やっぱりわかりやすい○○マニアとかってのは多少は需要あるんだな、と思う今日このごろ。


やっぱり、自分ももっとわかりやすいことをやんなきゃいかんのかなーと。
自分がコントロールできることはどれだけでも説明すればいいのだけど、
他所から入ってくる仕事はなかなかそうはいかない。
そして、だいたいはわかりやすい何かをイメージして依頼してくる。
もうすでにイメージができていて、実際の私との差を埋める時間を取る余裕はあまりない。
というかそういう必要がある事案はだいたいダメになる。
全部お膳立てされていればそのようにはやるけど、
そうでないのにイメージだけで期待されてしまうと困ってしまう。


自分を見てくれる人が多ければ、別に多少ややこしくていいんだけど、
なにしろ人気というか他人からの関心がない人間なので、
わかりにくさは今のところだいたいマイナスにはたらいている。


まあそういう自己アピール、自己プロデュースが昔から苦手なのだ。
考えをちゃんと説明すればわかってもらえる、という思考で生きてきたから、
わかりやすく自分を切り出すとかキャラづけするのがどうもできない。
こう演じてくれと言われればそのようにやるのだが、言われないと自然体になってしまう。
自然体の自分はいろんな発想とやる気がごちゃごちゃなのである。


今年はいろいろやる気はあるのだが、手を広げすぎて、
他人から見たら結局何をやってる人なのかさっぱりわかんないだろうなと思う。
そのせいでだいぶ、機会損失しているのも確かなのだ。


どうしたものだろうかなあ。


あと、年々頭の良さそうな文章がまったく書けなくなってきているのも困っている。
やっているのは、わかりやすく簡単に書くことばかり。
難解なとまでは言わないけれど、
重めの文章が書けないとなんか日本語って格好がつかない場合があるよね。めんどくさ(笑)。


文章の簡潔さは、やってることのわかりづらさをあんまり解決してくれない。
なぜならそもそも説明部分を読んでもらえなければ意味がないからだ!


やってることはわかりやすく、文章は賢そうに、がやっぱり得なんだろーなー。


なんだこの当たり前の文章は。

posted by しかすけ at 22:42| 日々の記録'15 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする