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2015年11月10日

20151110

政治家の香典の話が出ているが、私は冠婚葬祭などで直接お金を渡す・渡されるのが昔から苦手でしょうがない。なぜ現金なのか。お年玉とかもそうなのだが、いただくとしてもどうも気が引けるのである。

相手を想って贈り物を選ぶとか作るとかは(私は楽しいが)手間がかかるし、相手の生活上の必要性だけを考えるなら効率が悪いというのは、まぁわかる。では「ほしいものを聞く→買う」という段階を踏めば良さそうだが、やはりこれも手間はかかる。もちろん現金は(少なくとも貨幣の信用の高い日本では)何にでも使えるので非常に効率的ではあるが、どうも私は気分的にはよろしくない(あくまで私は、だが)。私なら一万円よりも心温まる手書きの手紙でももらえたほうが嬉しい。

まあ、渡したい人が渡せばいい、人それぞれでいい、というのなら別に良いのだが、だいたいこの手の風習は「横並びでなくてはならない」という注釈がつくのが嫌なところである。「常識である」というお墨付きのもと、お前だけ現金じゃないのは許されないぞ、という圧力がある。正直そんなのを振りかざすのはクソだと思うし私は絶対他人にそんなことを言ったりしないしみんながみんなそうではないと信じたいが、どこにでもこれを振りかざす人というのがいるのも確かだろう。

何かの際に何かを贈ることそれ自体は別に好きだし、良いと思う。ただ、現金じゃなくたっていいじゃないかと思う。気持ちはそれを判断されるための形式としてではなく、当人の中にあるものを当人のかたちで表し、それを個々に汲んで受け取る・受け取られるだけで良い。その手間がかけられない人だけが形式で判断されることを選べは良いはずだ。

もちろん、そういったお金は助け合いの意味もあるとか、間に入る業界が潤うとか、まあこれもよく言われるだろう。でも本来は冠婚葬祭もお金で解決するものではなくて、実際の手間・労力の面で助けたり、あるいはそもそも出せないほどお金のかかるようなやり方で立派にしなくったって成立するはずじゃないの? と思う。そういうやり方をする人がいて、これも「横並びではないから」「常識とされる形式と違うから」悪く言われたりするようだと、いよいよ病んでるんじゃないか・・・と思ってしまう。

誤解のないように言うが、金は汚いとかそういう意味ではない。ただ、みんなお金出しましょう、は違うだろと思うし、いくら出すのがマナー、などという気持ちも何もない誰が決めたんだという(本来の「マナー」などとはかけ離れた)文化など、維持してもしゃーないだろさっさとなくなれよ、とすら思うのだ。体裁でしか気持ちが判断できない・体裁が先にないとダメだなんて、それこそあまりに寂しいでしょ。もちろん「常識」にのっかるのは楽だという面もあるというのもわかってるよ。反論なんていくらでも思いつく。全部書こうか(笑)? だけど、どれも私の思考を覆すほどの正当性は感じない。

もし自分が結婚するなら、結婚式なんてしないで、全部こちらが負担して用意する手作りのパーティーならしたいと思う。最初からご祝儀をあてにした結婚式の計算とか、正直まったくやりたいとも思わない。まあ葬式は最初からやってもらわなくていいが。

そんなことを言っているから結婚もできないし周りに人もほとんどいない、というのは理解しているつもりだけどね。でも思うことは正直に書くよ、自分は。それでも良いという人だけ、付き合いが残れば問題ないからね。

posted by しかすけ at 22:27| 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月24日

20150724

我々の社会は、「一部を見て全体を決めつける」ことに非常に甘い社会だなあと思う。個人に対しても、集団に対しても。

心の中に白黒のつかないものがあると不安であるという人が一定数いるのは、理解できる。だから一部を見ただけで、全体の善悪を判断したがる。しかしそれは、判断したい側の都合にすぎないはずなのだ。判断される側はたまったものではない。しかし我々の社会は、ほぼ全て判断される側に責任があるなどとしているのではないか。

多数が所属する集団の中に、実際に不法な行動をする者がいたり、好みに合わない習慣を持つ人がいたりするのは、いわば当たり前のことである。だから、たまたま目についたそれだけから「その集団全体が悪い」「全体が気持ち悪い」などと論うことは、本来慎むべきことであるはずだ。また、個人にしても、ある属性を持つというだけで「こういう奴はきっと害である」「この属性を持つ人の一部が悪かったからこいつも仲間としか見えない」などと言われるのは理不尽なことである。しかしどんな根拠であれ判断する側が正しく、判断される側に発言権はないというのが我々の社会なので、これがおかしいこととされていない。私はこれが、とてつもなく嫌なのだ。

判断の必要性があり、互いがそれを承認しているのならば別に良い(試験や裁判など)。そうでもないのに、理不尽な判断が公開で行われ、またその行いを咎める人がほとんどいない、むしろ咎める人もまた悪だとか子供だと言われてしまうという、これほど納得のいかないことがあるだろうか。いくらなんでも、甘すぎるだろう。

これはたまに「他人に対して厳しい」とか「世間様は偉い」という言葉で表現される。しかしその実態は、白黒つけないと不安でしかたがないから他人を巻き添えにしてしまえという心の甘さに他ならない。他人や集団を裁くことで、自分の心を気持ちよくしているにすぎない。そんな行為、そこまで認められるべきことなんだろうかねえ。心の中だけでやるなら自由だけど。まあ、心の甘さを認める人同士が集まると居心地が良いのだろう。この世では、自分に厳しくしたって、誰も褒めてはくれないし、好かれもしないし、孤独になるだけなのかもしれない。
posted by しかすけ at 18:52| 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月31日

20150131「心の自由について思うこと」

※別に専門家とかではなく思ったことを書いてるだけですよ。


ネットでたまに見かける「人の心がわからない奴」という理由で人を悪く言う(叩く)行為は、
私にとってはやりたくないことのひとつである。


理由は、まずひとつには、その「わかっていない」とされる人も人間なのであり、
その人の内面もまた「人の心」であるからだ。
心とは人の皮の内側では自由で平等であり、その内容で咎められることはないはずだ。
「内面がみんなと同じでない(ように見える)」ことは人間を否定する理由にはまったくならない。
その考えに基いて皮の外で何かをしたとき、その行為が問われるだけである。

もうひとつには、その「わかっていない」人の心が、他の者は「わかる」のか。
また、「わかっている」という者同士で本当に「わかっている」のだろうか。
心は証明ができない。当人がそうだということを認定するかしないかしかない。
人同士の心は、基本的に「理解されたつもりになる」「わかろうと努力は見せる」ものであり、
互いに嘘をつかないという前提でも、そうそう他者がバッチリ理解できるものではないと思う。
少なくとも「理解してもらえて当然」「できて当然」という類のものではない。
ときには自分の内面すら、他人に伝えるのは難しい。それを他人に求めるのは酷ではないだろうか。


身体の機能は人それぞれに異なり、脳のはたらきもまたそうであるように、
心というのは万民共通ではない。違って当然だ。
心とは神かがった何かや身体を離れた何かではなく、身体に備わった機能の一部だ。
後天的な環境や出来事でも、感情や思考はまったく変わるだろう。
「心はみんな同じで当然」というのは「自分もみんなと同じだ」という安心感のために抱く幻想であり、
現実と乖離しているという自覚は必要だ。
自分の思考が他者と違っても別に良いはずなのだが、
我々の暮らす社会ではなぜかそれが不安や糾弾の種になって苦しむ場合があるのは残念なことだ。


ただ、「自分の思いは横に置いておき、それに左右されず他人の思いを構築する」には少し技術がいる。
ある程度訓練していないと、自分の思いにどうしても引っ張られてしまうと思う。
みんながみんな、それができるとは私は思っていない。
自分と相違する都合の悪いことは受け付けないというのも自衛手段のひとつではあるし、
深く人を見つめないで自分と同じだと思うことで「理解した」つもりになれるのは
時間の経済という点ではそこまで否定もできない。
それら自体は悪いことだと思わないが、逆に他者を悪く言う材料に使ってほしくはない。
勝手にそう思い込んだのは自分であることを忘れてはならない。


人の内面は、長い時間の付き合いがあってようやく互いに
「ああ、だいたいこんなことを思っているな」と思うものだろう。
あとは互いに「わかろうとしている姿勢」そのものに感謝や安心や承認を得ているにすぎない。
それは「心を理解している」「されている」のとは違うから、むやみに混同してはいけないと思う。
その誤解は「理解されていると思ったのに」という押し付けの始まりにもなってしまう。
理解しようとしてもわからない心はたくさんあって当然だし、
理解しようとしている姿勢が形式的なものである可能性もある。


また、「あなたはこう考えている」「みんなこう考えるのが当然」という言葉に、
意識的・無意識的に自分の心を寄せてしまう人もいる。
そうさせるのがうまい人というのもいる。
これもまた、それだけでは悪いことであるとは言えない。
ただ、そういう「無条件に飲み込みやすい人」を操って悪事をはたらいたり、
その数にものを言わせて他者を追い出したりするのならば、それは糾弾されるだろう。

どのような心を持ったとしても、それに基づいて行われる外部への「行為」が問題なのであり、
証明もできないのに内面を決めつけることで人を否定しようという動きには、
私はまったく賛成できない。

また逆に、「Aという行為をする人の内面はBだ」というような決め付けも、
たとえ何割かはそうだったとしても、私には積極的に賛同するところがない。
こうした安易な後ろ盾で安心を得るほど、私の心は不安に苛まれてはいない。
何よりそんな決め付けをされたほうは、きっと迷惑なのではないか。
ましてやそれが否定的な内容だったとしたら・・・。
他者を思いやるのならば、こうした決め付け系の言説には安易に飛びつかないでほしい。


これは私の考え方の根幹にあることなのだが、
私にとって他者とはどこまでもグレーゾーンでわからないもので、
そこに短時間で白黒をつけることにさほどの意味はない(ので、普段はやらない)。
意味があるとすればその人の行為が我々の社会での法に照らしてどうなのかという点と、
長い時間をその人と過ごしてみてどう感じるかということくらいである。
よく知らない人のことは、どうやったって知らないのだから、
偏った情報から変に思い込んだりするのは却ってその人に失礼だと思っている。
(仕事の面接など、互いが短期間での評価を求めるならともかくとして。)

もちろん、周囲の人や著名人に白黒つけないと精神衛生上良くないという人がいること、
また他者を斬り評価することが一種の娯楽でもあるということはわかるつもりである。
また、派閥や敵味方という観点を持つ人がいる以上、
偏らないことより偏るほうが利益になる一面も、まったく否定はできない。
ただ私はそこに、少なくとも表立ってあまり加担したくないというだけで!


※こういう考え方をしていてもあまり良い出来事はないかもしれませんので、
 影響されたり真似する場合は自己責任でお願いしますね。
 
posted by しかすけ at 12:16| 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月19日

20140719「猥褻は悪なのか」


http://togetter.com/li/692728

表現の何が猥褻に当たるのかについては昔からいろいろ議論があり、
また時に警察の勝手な判断によって見せしめ逮捕のようなものが起きたりもする。

何を見て猥褻だと思うかは、「個人の自由である」と思う。
ただの人形やただの絵、ただの衣服でもそう思う人は思う。
人間は想像することができるのだから、例え何もなくても猥褻なことを思うことだってできる。

「これを見たら猥褻だと思うのが普通だ」などと押し付けられるべきではないし、
誰かが猥褻だと思ったからといって、それを取り去る必要もないと考える。
また誰かが芸術だと言ったからといってそう思わなければならないわけでもない。
わからないものはわからないでもいいのだし、それで卑下されるものでもない。

つまり「どう思うか」なんてことに共通基準を設けるのは現実的ではない。
合わない人が必ず出てくる。
だから、問題(不利益)があるならそれと因果関係が明確に証明できる行為のみ、
具体的に法に記載して取り締まれば良いと思う。


そもそも何かの作品が猥褻であることは悪いのか。低俗なのか。
実は私はこのこと自体、ピンと来ない。
猥褻だと思うだけで何か不都合があるのか。
どの思いが高尚でどれが低俗なんて本当に人間の内部で決まっていることなのか。

快楽に溺れ堕落するとか、他人を強制的にどうにかするとか、
そういうことがなければ別に猥褻だと感じたところで特に困らないではないか。
自分をコントロールできない年齢なら上記の危険もなくはないが、
多くはさしたる影響なんてないだろうし他の法律で取り締まれる。
どうせ犯罪に走る人は一定数はいる。また猥褻さ無しで子孫繁栄家庭円満も無理だろう。


別に性の解放とかどっちの性別がどうだとか言うつもりはないが、
とにかく自分は、何かの作品の見方なんてのはその人の自由で、
それが猥褻であるかないか自体問題ではないと思っている。
もちろん、猥褻であると思う人がいるというだけで作り物を取り締まるなどとんでもないと思うし、
「自分と同じ猥褻さ基準をみんなが持ってくれないと不安だから取り締まれ」みたいなのは
他人(の自由)を馬鹿にした論理(というか感情)だと思うがどうだろうかね・・・。
 
 
posted by しかすけ at 01:17| 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月14日

20140714「表現だから守る」

ろくでなし子さんが逮捕されたそうで、いろいろ議論されている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140714-00000527-san-soci

自分みたいなものがどうこう言ってもアレだけど、
まあちょうどこないだ「ブロンズ像をエロ目線で見るな」とかいうコメントを頂戴したので、
http://hoshimeki.seesaa.net/article/400893970.html
まあ何か考えたことを書いておこう。

えーと、俺はまず、どういうつもりで作られたものかはさておき、
ものを見た感想・感覚は個人の自由だと思ってるのね。
そりゃそうだよね。そんなのはその人の内部の話だからね。
そしてそれを表現することもまた自由だ。
ただしその表現や感想に基いて他者を攻撃したり規制しようするのは、
他者の自由を認めない行為だからしてはいけないと思う。
つまり気に入らない時に文句言ってもいいけど、やめさせることはできないということ。

これが俺の基本的な考え。
自分の気分がいいとか悪いとか、そんなことはどーでもいいのだ。

次に、わいせつ物とは何か。
これはモノである限りどうでもいいと思っている。人そのものの売買はまずいが。
わいせつ物を頒布してはいけないかというと、これも別にいいと思っている。
例えば、モザイクがあろうがなかろうが、物の提供目的に変化はない。
また、何をわいせつだと思うかは現在では非常に個人差がある。
人を同じ価値観で縛るのは社会的利益が多少あってももはや無理だ。
わいせつ=法的悪もおかしい。わいせつな気持ちゼロで我々は繁栄しますかね。

大事なのは他者を直接傷つけたり、不当に財産を奪ったり、搾取したりしないこと。
それ以上の思想や誰かの好みを持ち込むから、見解が多岐になりおかしな議論になる。
命や財産は守られるべきだが、そうでないことは極力自由にし、
気に食わないことがあるかもしれないが無視するか我慢する。それでいいではないか。

たったこれだけのシンプルなことだと思うんだけどね。
あんまり言うこと無かったね。

まあつまり、ブロンズ像とか、ろくでなし子さんの作品をエロで見ても自由だし、
エロ目的の娯楽作品を芸術として見ても、
そんなの誰に指図されるべきでもない自由なことでしょという考え。
「あれは芸術だから守るべき」とはまったく思わない。ただ「表現だから」守るのだ。

「表現の自由」とはよく言うが、いったいどれだけの人が
「表現」について、そして「自由」について深く真剣に考えたことがあるのかなあ。
考えてもいない人のこの手の話の主導権が握られるのは勘弁してほしい。
posted by しかすけ at 20:59| 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする