2016年04月17日

20160417「人の移動」


※愚痴です。

「人間は流動しても良い」と思えることは、とても大切だと私は考える。
留まり続けること、狭い社会に縛られることは、一時の安心感はあるだろうが、
そのために削られる心身、また時間やコストは馬鹿にならない。
また、同じ場所に居続けられる人が偉いわけではない。
我々はどこにいても、どこに移っても、平等なはずだ。

災害対策にしてもいじめ・犯罪被害対策にしても、また一時的な住宅需要の対策にしても、
いつでも生活場所が変えられて、働き学び暮らせる環境というのがいちばん望ましいと思う。
危険がある場所や希望が感じられぬ場所にも留まり続けるのは、
当人のエネルギー状況や感情としてはわかるし、
もちろん物理的に足止めされている状況では仕方がなく留まる期間も存在するが、
身の安全や前途を考えるならば土地に縛られてしまうことは惜しい。
その移動機会を当人たちの資力・人間関係の負担とするのではなかなか解決しない。

雲を掴むような話だが、私のひとつの理想は、
一定規模のどこの都市にもまとまった余剰住宅・施設があり、遠方からの移住者を受け入れられること。
そして、その地域内で生活上必要となる物事(衣食住・介護・保育・教育・娯楽等)が仕事として成立し、
経済が回り充分な生活が送れること。
余っている時は安価な一時宿泊施設や多目的施設として利用できれば良く、
本当に必要とする人が出た時にいつでも供給できるようにする。

住宅をどんどん供給したら不動産の価値は落ちるだろうから、
不動産を持つ人・不動産を担保にしている人は、人間が流動する余裕を持つ社会は嫌かもしれない。
しかし保育園や葬儀場の設置、地盤の情報公開などの問題でもそうだが、
立ち退きですらない不動産価値変動を理由に公的なものを拒むのは私は納得がいかない。
もともと不動産価値なんて環境で変動するもので、そこにこそ本来の自己責任がある。
むしろ、よりよい場所へどんどん移動すれば良い。

もうひとつの障壁は「住民主導」だろう。
元々は行政主導に対しての住民主導という言葉だったように思うが、
住民だけが主導するまちづくりでは、基本的に自分のことしか考えない。
目先の利益を考えれば、他者のための余剰など無駄と判断されてしまう。
そもそも、街は居住者だけでなく通勤通学者や様々な来訪者で成り立っている。
そういう人たちが何の発言力もないのでは却ってアンバランスだ。
例えば、仕事を東京に依存する人の何割かが実際住めるのは埼玉や千葉であるのが現実だが、
彼等が東京に対して何ら発言権を持てないというのは本当に良いことなのか。
自治体への選挙権が0.5票ずつに分けられたっていいはずだ。
また、自治に関しても、賃貸住宅の居住者は差別して扱われてはいないか。
「長く地域に住む人しか地域に責任を持っていない」は間違った思考だと思う。
むしろ、自分のことしか考えられない状況になりがちである。
広い地域との関わりで各地域が維持されていること、
また自分たちも移動する時があるということを事前に織り込んだまちづくりが必要ではないか。

「故郷がある人」の感情だけを優遇するのはやめ、
人がもっと自由に移動でき、移動しても良いのだと思える社会になることを切に望む。
posted by しかすけ at 06:27| 日々の記録'16 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする