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2016年05月06日

20160506「外見で判断するとはどういうことか」

外見で何かを判断するということは結局は理由付けのための経済性の問題なんだろうなと思う。いちいち時間かけて人を見ると不経済だけど漠然とした基準にすると見る側に責任が及んで気が重いからそれっぽい形を作って常に見られる側に責任があるってことにしたいよね、ていう。

(というのをTwitterに書こうとして、でも前にも書いたわと思ってやめた。ここでも多分書いた。)

本当は外見で何かを判断すること自体、失礼なはずなのだ。ただ、それ以上を見るには時間がかかる。関わる人数が少なければそれでも良いが社会がそうではなくなったので手早く判断してもOKということにしたい。それでも双方にそのように見る・見られる承諾が必要だと思うが、それだと見る側の経済性で仕方なく斬っているみたいで風聞が悪い。そもそも「この人を斬りたい」と思っても、斬られたくないと思う人だっている。じゃあ常に見られる側に責任がある、失礼ではない、ってことにすれば気軽に人を斬って選択する大義名分ができるね! ついでに見られる側がそれに恐れを抱いていろいろ買ったり直したりしてくれるかもね! ということにすぎないよな。


でも、実質的にそれで良い判断ができたかどうかはわからない。選ばなかった時、別の選択をした時との比較はしづらい。中身をあまり見ていない以上は、その基準を信じるしかない。基準を信じていないけどそうしました、ではあまりに虚しいだろう。

しかし結局外見のテンプレートができ個々にそこに合わせ差異が埋まっていけばいくほど、基準としては意味が薄くなる。意味がなくなれば、また次の何かの差異を基準として信じていく。できれば簡単に埋められてしまわない差異を、だ。たとえば服の形を指定し、色を指定し、そして素材を指定し、細かな造りを・・・というように。

そもそもどうしても他者を判断しなくてはいけないのか疑問なケースも多々ある。自分に直接関係ない人まで斬る必要などない。違う基準の人がいると不安だから攻撃したい、あるいは無関係な他人を斬ることが娯楽だ、というのはちょっと精神が不安定すぎはしないか。

あとやっぱり、外見で判断するのはまず失礼なことだと思うのでそれを実感して行うべきだと思うし、見られる側に常に責任があるなんてことは本来はないと思う。少なくとも俺はね。そういう人間がここに一人いるということは記しておきたい。

posted by しかすけ at 23:27| 日々の記録'16 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする