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2015年07月24日

20150724

我々の社会は、「一部を見て全体を決めつける」ことに非常に甘い社会だなあと思う。個人に対しても、集団に対しても。

心の中に白黒のつかないものがあると不安であるという人が一定数いるのは、理解できる。だから一部を見ただけで、全体の善悪を判断したがる。しかしそれは、判断したい側の都合にすぎないはずなのだ。判断される側はたまったものではない。しかし我々の社会は、ほぼ全て判断される側に責任があるなどとしているのではないか。

多数が所属する集団の中に、実際に不法な行動をする者がいたり、好みに合わない習慣を持つ人がいたりするのは、いわば当たり前のことである。だから、たまたま目についたそれだけから「その集団全体が悪い」「全体が気持ち悪い」などと論うことは、本来慎むべきことであるはずだ。また、個人にしても、ある属性を持つというだけで「こういう奴はきっと害である」「この属性を持つ人の一部が悪かったからこいつも仲間としか見えない」などと言われるのは理不尽なことである。しかしどんな根拠であれ判断する側が正しく、判断される側に発言権はないというのが我々の社会なので、これがおかしいこととされていない。私はこれが、とてつもなく嫌なのだ。

判断の必要性があり、互いがそれを承認しているのならば別に良い(試験や裁判など)。そうでもないのに、理不尽な判断が公開で行われ、またその行いを咎める人がほとんどいない、むしろ咎める人もまた悪だとか子供だと言われてしまうという、これほど納得のいかないことがあるだろうか。いくらなんでも、甘すぎるだろう。

これはたまに「他人に対して厳しい」とか「世間様は偉い」という言葉で表現される。しかしその実態は、白黒つけないと不安でしかたがないから他人を巻き添えにしてしまえという心の甘さに他ならない。他人や集団を裁くことで、自分の心を気持ちよくしているにすぎない。そんな行為、そこまで認められるべきことなんだろうかねえ。心の中だけでやるなら自由だけど。まあ、心の甘さを認める人同士が集まると居心地が良いのだろう。この世では、自分に厳しくしたって、誰も褒めてはくれないし、好かれもしないし、孤独になるだけなのかもしれない。
posted by しかすけ at 18:52| 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする