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2018年07月05日

反省などのメモ

今後のための反省。何とは言わない。


●出番前と本番


まずまず最低目標としていた感じには振る舞うことができたが、もう少し抑揚やキャラをつけたかった。


本番で話の受け答え・タブレット操作・台本確認・モニター確認・フリップ等小物管理・カンペ確認を素人が同時にできるわけないけど、まあ自分は完全なる素人とは言えないし、わりとよくやったほうだろうと思う。しかしここまでやるなら自分でタイムキープまでしたい。


いつものことだが口が乾いてしょうがない。何か対策はないか。


出演者・スタッフの方々はみんな優しかった。


出番より前にサブに移動したが、荷物は楽屋だからコンディション整えるための道具等を持ち込みづらい。


けっこう大所帯(サブに10人くらいいる)で、配信の確認やコメ拾いが大変そう。思ったよりアナログ。


基本的に放置されるしうろうろもできないのでテンションを落とさない工夫は必要。


映ることの緊張はもはやないが、とにかく操作とか運びとかそっちのイメージトレーニングが大事だった。


ピンマイクは慣れない。多分変な音入っただろう。鼻が鳴ってないか心配。


台本の存在を出して良いタイプの番組かどうかもいまいちわからなかった。


カンペも慣れなかった。最初の方は完全に見てない。カンペのリハが必要(笑)。


咳止めと点鼻薬のおかげで短時間ならなんとか普通に喋ることが出来た。2週間前は無理だった。


サングラスは個人的に正解だった。モニタでの映りや目線をあまり気にしなくて良いので(目線合わせるのが苦手というか半端な視線になりがち)。服装(クソダサTシャツ)はどう突っ込まれたか謎。


コメント見えない(多分)のは配慮? 別に平気だけどな。もっとも自分がコメント拾ってたら時間足りないけど。


以下映像確認後の事項。
わかってはいたが前後に揺れすぎ。これはリアクションを取ろうという一環なのだがあまりよくない。首から上だけを半分の頻度とスピードで動かしたい。


手振りが適当&ワンパターンすぎる。指す時は指す。映像仕事で手に神経が行ってないのは良くない。


どっしり座りすぎなのはテンション低く見えるかもしれない。姿勢が悪くならないようにああしてるんだけどね。


サングラスはもう少し上げ直したほうが良い。


台本確認・タブレット確認時、あまり下を向かないよう少し遠目に置きたい。


今回は状況が厳しくできなかったが、やはり発声練習はしたほうが良い。といっても実は声の確認はしてない(映像のみ)。撮ったからまた後日やる気が出たらやる。


画的バランスはそんなに悪くはなかったかなと思う。


モノの説明ばかりで面白さの説明をする部分がなかった。まあそういう台本だったのだが、ちょっとまずかった。


やはりタイムキープできる材料がこちらにあったほうが安心。というか内容盛り込みすぎだろうアレ。



●当日スタジオ打ち合わせ


スタジオ到着後の打ち合わせについては、台本はあるもののこちらからある程度画像出しキーなどを積極的に決めていくなどしないといけなかった。もちろんしたけど。あと当日いきなりタブレットの操作(地図のみ)まで依頼されたのは参った。


出る前から時間押してしまったので最後までいる羽目になり(本当はコーナー終わりでハケる予定だった)、エンディングのところがまったく予習がなくて無理だった。こちらもそうなるのを想定しておくべきだった。


どの程度台本通り進むか(探りは入れたものの)予測が難しかった。どの程度仕切って良いのかも掴みかねた。


番組の定番フレーズ等はこのときに聞いておくべきだと思った。


連続した挨拶をし慣れていないのと寝不足とかでなんかよくわからん感じになってしまい、本番以外での受け答えは全然できなかった。



●打ち合わせ後の楽屋など


楽屋を与えられたのは意外にも初めてだった。カードキーだったが貴重品は持っていけとのこと。


楽屋というのは良い場所ではあるが、一人だと何もすることがなくテンションが落ちると思った。かといってうろうろするのも気が引ける。4Gの電波1つだったし、なんかTVもうまく映らなかった。


ありあまる時間で台本の細かいチェックができたのはよかった。


楽屋が一番奥で、他の楽屋前を通らないとトイレにもいけないのでやや緊張した。


当たり前だが楽屋の外は静かで、通路での声や他の楽屋の扉が空いていればそこの声も聞こえてきた。だから自分の発声練習はやらなかった。


配信確認等もあるため現場は思ったよりスタッフ数が多かった。ほぼ普通のテレビと変わらないのでは。




●初回打ち合わせなど


こちらで提供物を用意する内容で、日曜午前初回打ち合わせ水曜深夜出演(平日は仕事・日曜午後は散策会)はいかにも準備期間がない。しかも打ち合わせ候補日についての決定も遅かった。


このときに急遽暗渠と架空地図をやることになったためあまり準備ができなかった。3本立てはありがたいが、せっかくならもう少し詰めたかった……。


真面目なネタ(階段)は要らなかったのではと思ったが時すでに遅し(選択は向こうに任せた)。初回打ち合わせでもっと強く候補を押すべきだったか。


求めてもスケジュールがなかなか送られてこない。当日(平日)の昼前になって22時に来いというのはギリギリすぎる。徹夜覚悟して行ったとはいえ、帰りについても到着してからしか知らされない。


まあ金と時間の話をギリギリまでしないのは少し規模の大きい映像関係の仕事ならありがちなことではある。



●帰路など


多分初めてタクシーチケットを使った。しかも2枚(遠いからね)。


タクシーの中でスマホは酔う。寝れもしなかった。


水は未開封2本+飲みかけ1本もらってきた。



●全体として


眠かった。


ネット放送は初だったけど、ここの場合はテレビにより近い感じがした。


放送の仕事自体はつまらないということはないので引き続きやりたいとは思う。あんまり声かからないけど。




あとは思い出したら追記。
posted by しかすけ at 22:39| 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

2016年 個人的振り返り

今年は珍しくいろいろと目標を立てたが、
まあどれもあんまりうまく運ばなかったと言える。
というか、どうも流れが悪いからこそ目標を立てたのだけども。
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例年春ごろに仕事が少なくなって時間ができるので、
そこを当てにして目標を立てたものの、
通年で同じように仕事があったため結果としてずるずるとどれも半端になってしまった。
まったくやっていないわけではないのだが、完成までできていないというか。
あるいは生活疲れのほうが先に来てしまったというか。
時間がないわけではないが身体と精神が追いついていなかった。

あととにかく今年は発展性・次の展開が鍵だと思い、
これまでになくいろんな場所で自分の取り組みを説明してきたが、
これも年内としては何一つ結実しなかった。
メディア出演も前半は話がいくつかあったが実行されたものはゼロ。
たぶんもうないだろうと思う。

また、活動に発展性を持たせたかったにも関わらず、
ネットでの発信回数を減らしてしまったのはまずかった。
ネット的なやる気は常に低かった一年だった。まあ手応えもないからねぇ。

東京散歩革命シリーズ散策会が毎月できたのは及第点だが、
本当は他のシリーズをもっと増やすつもりだった。
今年の個人的ベスト企画は「バタヤが歩いた道」だろうか。あと福袋制作交換会な!
http://shikasukeito.blogspot.jp/2016/04/blog-post.html

生活上では長年使ってきた家電やライフライン設備がことごとく不調になり、
収入的にもさほど良くはなく、人と仕事以外で逢う機会も少なく、
例年に増して寂しく苦しい一年だった。
しかし高校時代の旧友に会ったりできたのは良かった。


来年は散策活動はセーブし、
これまで溜まっている題材を表現にすることに集中したい。
人間いつまで生きていられるかはわからないので、
なるべく形として残せるものは残したいところ。
散策会は4月以降は2−3ヶ月に1度くらいになると思う。

表現活動は続けてやっていないと怖くなってしまう部分があるため、
今よりも悪くならないよう頑張っていきたい。
あとなるべく、批判や無反応は気にせず自己肯定的に。

・・・というのが内部的な振り返りかなあ。
正直あんまり良くなかったので、これ以上の振り返りはしないでおきたい。
また来年に期待。もしくは来世に(笑)
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posted by しかすけ at 21:18| 日々の記録'16 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月06日

20160506「外見で判断するとはどういうことか」

外見で何かを判断するということは結局は理由付けのための経済性の問題なんだろうなと思う。いちいち時間かけて人を見ると不経済だけど漠然とした基準にすると見る側に責任が及んで気が重いからそれっぽい形を作って常に見られる側に責任があるってことにしたいよね、ていう。

(というのをTwitterに書こうとして、でも前にも書いたわと思ってやめた。ここでも多分書いた。)

本当は外見で何かを判断すること自体、失礼なはずなのだ。ただ、それ以上を見るには時間がかかる。関わる人数が少なければそれでも良いが社会がそうではなくなったので手早く判断してもOKということにしたい。それでも双方にそのように見る・見られる承諾が必要だと思うが、それだと見る側の経済性で仕方なく斬っているみたいで風聞が悪い。そもそも「この人を斬りたい」と思っても、斬られたくないと思う人だっている。じゃあ常に見られる側に責任がある、失礼ではない、ってことにすれば気軽に人を斬って選択する大義名分ができるね! ついでに見られる側がそれに恐れを抱いていろいろ買ったり直したりしてくれるかもね! ということにすぎないよな。


でも、実質的にそれで良い判断ができたかどうかはわからない。選ばなかった時、別の選択をした時との比較はしづらい。中身をあまり見ていない以上は、その基準を信じるしかない。基準を信じていないけどそうしました、ではあまりに虚しいだろう。

しかし結局外見のテンプレートができ個々にそこに合わせ差異が埋まっていけばいくほど、基準としては意味が薄くなる。意味がなくなれば、また次の何かの差異を基準として信じていく。できれば簡単に埋められてしまわない差異を、だ。たとえば服の形を指定し、色を指定し、そして素材を指定し、細かな造りを・・・というように。

そもそもどうしても他者を判断しなくてはいけないのか疑問なケースも多々ある。自分に直接関係ない人まで斬る必要などない。違う基準の人がいると不安だから攻撃したい、あるいは無関係な他人を斬ることが娯楽だ、というのはちょっと精神が不安定すぎはしないか。

あとやっぱり、外見で判断するのはまず失礼なことだと思うのでそれを実感して行うべきだと思うし、見られる側に常に責任があるなんてことは本来はないと思う。少なくとも俺はね。そういう人間がここに一人いるということは記しておきたい。

posted by しかすけ at 23:27| 日々の記録'16 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月17日

20160417「人の移動」


※愚痴です。

「人間は流動しても良い」と思えることは、とても大切だと私は考える。
留まり続けること、狭い社会に縛られることは、一時の安心感はあるだろうが、
そのために削られる心身、また時間やコストは馬鹿にならない。
また、同じ場所に居続けられる人が偉いわけではない。
我々はどこにいても、どこに移っても、平等なはずだ。

災害対策にしてもいじめ・犯罪被害対策にしても、また一時的な住宅需要の対策にしても、
いつでも生活場所が変えられて、働き学び暮らせる環境というのがいちばん望ましいと思う。
危険がある場所や希望が感じられぬ場所にも留まり続けるのは、
当人のエネルギー状況や感情としてはわかるし、
もちろん物理的に足止めされている状況では仕方がなく留まる期間も存在するが、
身の安全や前途を考えるならば土地に縛られてしまうことは惜しい。
その移動機会を当人たちの資力・人間関係の負担とするのではなかなか解決しない。

雲を掴むような話だが、私のひとつの理想は、
一定規模のどこの都市にもまとまった余剰住宅・施設があり、遠方からの移住者を受け入れられること。
そして、その地域内で生活上必要となる物事(衣食住・介護・保育・教育・娯楽等)が仕事として成立し、
経済が回り充分な生活が送れること。
余っている時は安価な一時宿泊施設や多目的施設として利用できれば良く、
本当に必要とする人が出た時にいつでも供給できるようにする。

住宅をどんどん供給したら不動産の価値は落ちるだろうから、
不動産を持つ人・不動産を担保にしている人は、人間が流動する余裕を持つ社会は嫌かもしれない。
しかし保育園や葬儀場の設置、地盤の情報公開などの問題でもそうだが、
立ち退きですらない不動産価値変動を理由に公的なものを拒むのは私は納得がいかない。
もともと不動産価値なんて環境で変動するもので、そこにこそ本来の自己責任がある。
むしろ、よりよい場所へどんどん移動すれば良い。

もうひとつの障壁は「住民主導」だろう。
元々は行政主導に対しての住民主導という言葉だったように思うが、
住民だけが主導するまちづくりでは、基本的に自分のことしか考えない。
目先の利益を考えれば、他者のための余剰など無駄と判断されてしまう。
そもそも、街は居住者だけでなく通勤通学者や様々な来訪者で成り立っている。
そういう人たちが何の発言力もないのでは却ってアンバランスだ。
例えば、仕事を東京に依存する人の何割かが実際住めるのは埼玉や千葉であるのが現実だが、
彼等が東京に対して何ら発言権を持てないというのは本当に良いことなのか。
自治体への選挙権が0.5票ずつに分けられたっていいはずだ。
また、自治に関しても、賃貸住宅の居住者は差別して扱われてはいないか。
「長く地域に住む人しか地域に責任を持っていない」は間違った思考だと思う。
むしろ、自分のことしか考えられない状況になりがちである。
広い地域との関わりで各地域が維持されていること、
また自分たちも移動する時があるということを事前に織り込んだまちづくりが必要ではないか。

「故郷がある人」の感情だけを優遇するのはやめ、
人がもっと自由に移動でき、移動しても良いのだと思える社会になることを切に望む。
posted by しかすけ at 06:27| 日々の記録'16 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月10日

20160410「下見」

今日は24日の散策会の下見に八王子まで行った。
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http://shikasukeito.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html

以前住んでいたところでもあり、散策家と名乗る自分が育まれた場所である。
下見するほど知らない場所ではないが、数年ぶりの訪問であるし、
下見したらしたでクオリティは上がるので、一応行くことにした。
前日体調悪くて一日棒に振ったため、あまり準備はできなかったが。

湧水や石仏のある場所の発見、いままで写真を撮っていなかった暗渠の訪問など、
それなりに有意義な下見だったと思う。以前記事にしたものも少し修正できたし。
時期的に桜がまだ散りきっておらず、他の花もいろいろ咲き始めていたのも良かった。
きつい起伏と自然、そして人の生活の匂いが入り交じるこの地域、やはり散策にはとても適している。
都区内のいろいろな小さなスポットの発見も良いものだが、
八王子は手軽に冒険気分が味わえる程度にはスケールが大きい。
当時、自宅を出て1時間歩いて戻るだけでかなり満足できた。

私道が多かったり里道が通れなかったりと問題もあるが、
やはり原点というか、いつ歩いても楽しい地域だと思う。
これをうまく伝えられたら良いのだけど。

というか、需要は知らないけど、自分に見えている世界をもっと伝えたいというのはある。
ありがちな「深み」とかではなくてね。自分はマニアではないので。
頭の良さそうな感じにもならないだろうと思う。
まあそれは、これ読んでたらわかるとは思うけど・・・。
自分が見てるのはこういうものですよ、こういう視点ですよ、
こういうものを通すと違って見えますよ、みたいなのに近いかな。
posted by しかすけ at 23:59| 日々の記録'16 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする